20歳~40歳までの世代が主体的にまちづくりを行う青年会議所。日本では、1949年に「明るい豊かな社会の実現を理想」とし、責任感と情熱をもった青年有志による東京青年商工会議所の創立から、JCの運動が始まります[1]。
「共に向上し合い、社会に貢献しよう」という理念[2]のもと、各地に青年会議所が創立し、栗山町では1969年に栗山町青年会議所(以下、JC)も創立。2024年で55周年を迎えました。
今回は現理事長である天野剛生(たかお)さんに、JCの活動を続けている理由や地域に対する想いについて語っていただきました。
日常にあった、栗山青年会議所との関わり
天野さんは栗山町出身。父である天野一彦(がずひこ)さんは、1996年・28代理事長として手腕を振るい、1990年代の栗山の地域づくりに大きく貢献した人物でした。
そんな父の背中を見て、天野さんは幼少期を過ごします。
その傾倒ぶりを聞いて「お母さんは、そんなお父さんを見てどう思っていたんですか?」という質問が、おもわず飛び出してしまいましたが、
仲間の熱意が、自分のための活動へと繋がった
「自分もいずれは家業の印刷業(アマノデザイン株式会社)を継いで、父のようにJC活動もする」と漠然と考えていた天野さん。しかし高校2年生のときに、不幸にも家業が続けられないという憂き目に遭います。
その後、JCの仲間による縁で、町外の会社が事業を継続することになり、2014年に「アマノ印刷株式会社」として会社を再生することになりました。
天野さんは高校を卒業後、岩見沢市にある建築会社で働いていましたが、会社再生を転機に、父の仕事を覚えるために入社。JCにも2015年に入会して、サケの稚魚放流会などの活動に取り組んでいました。しかし、2017年に会社は再び危機に見舞われることになります。
自分の力が必要と言われた「原体験」
会社を清算して以降、天野さんは心を閉ざしていた時期もあったと言います。自身の生活にも余裕がなかったことも併せて、JCや地域活動も休止。無機質な日々が続いていました。
転機は2019年。JC仲間に背中を押され活動を再開することになります。
復帰後は、仕事の傍らかつての父と同じようにJCの活動に専念することとなります。ふるさと田舎まつりや夕張川関連事業、スポーツ関連事業、青少年育成事業など、以前より前のめりで関わることになりました。
天野さんは「これまでは漠然としていた活動が、仲間たちの説得により、はじめて『自分のための活動』に変わった」と言い、そのときの感じた気持ちが「原体験」となって、現在の活動の源泉となりました。
父の背中に追いつき、背中を見られる立場に
今年で創立55周年を迎えるJCですが、天野さんは第56代目の理事長として手腕を振るうことになり、父の背中に追いつくことになりました。
今年1月に開催した新年交礼会における理事長所信では、その気持ちが強く表れる言葉が続いています。くりやまのおとでは一部を紹介します。
JCは40歳の年齢に達すると役割を終える形になりますが「卒業しても、共に歩んだ大切な仲間たちと肩を組んで飲みたいですし、これからも真剣にまちづくりを考えていきたい」と語ります。
現在は、記念事業の企画のため東奔西走している日々にある天野さん。「後輩や栗山の子供たちにだらしない背中を見せられません」という、静かながらも熱い想いを秘めた言葉が印象的でした。
追記:2024年6月6日
創立55周年を記念事業として、サッカー日本代表監督の森保一(はじめ)さんを招いた基調講演会を開催します。※現在は申込受付は終了しています
栗山青年会議所の基本情報
注釈
[1]日本青年会議所HPより引用
[2]同上
参考文献
栗山青年会議所(2019)「創立50周年記念誌」
栗山青年会議所HP「理事長所信」
※ 本稿は、2024年5月7日の取材をもとに広報くりやま2024年6月号で掲載した内容を加筆しています。