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#13 昔ながらの味を守り続ける想い|まちのこと

親子三代が紡ぐ、栗山のお菓子屋さん

本日で1月も終わり、高校や大学の進学試験も大詰めとなります。頑張っている受験生のご褒美として振舞われるのがケーキということも多いはず。ケーキはクリスマスや誕生日イベントでも、家族や友人と共に祝い・喜ばれるお菓子として、人々を笑顔させてきた名脇役でもあります。

1951(昭和26)年[1]に開業し、栗山駅前の商店街に店を構える「前田菓子舗(ほ)」は、和洋の菓子が揃うまちのお菓子屋さんとして「まえださん」の愛称で長らく親しまれ、多くの口を幸せにしてきました。

今回の「まちのこと」は、今年で創業74年を迎えた前田菓子舗が主役。現店主である3代目の前田真里(まり)さんからのお話や祖母・哲(てつ)さんから採話した「栗山ふるさと文庫」、町内のミニコミ誌の情報を紡ぎながらお店の歴史を紹介していきます。

撮影:望月貴文

初代の水飴屋から始まった

前田哲さんは1910(明治44)年、小樽市生まれ。小樽の家では製菓業を営んでおり、1932(昭和7)年に夫である徳次郎(とくじろう)さんと結婚しました。しかし、戦争による空襲を避けるため、家族総出で栗山に移り住むことになりました。

前田菓子店舗の原点は、1946(昭和21)年、戦後復興時に町内のコンクリート屋さんから四斗缶の水飴を売ってもらい飴屋を始めたことがきっかけです。

昼間持ってきて公安(警察)に捕まったら難儀だから、夜にむしろをかけて何回も運んだ。3か月くらいで買った値段の3倍にもなって儲かったね。その頃はみんな闇屋やってたんじゃないかな。そうしてでも働かなければ、みんな食べていけなかった時代だった。飴を売っていたのはわしだけだったよ。苫小牧や夕張にも売りに行ったよ

出典:阿部敏夫(2008) p.50より引用

飴屋の貯まった資金のおかげもあり、1950(昭和25)年の夏に、現在の場所に店を構え翌1951(昭和26)年に「前田菓子舗」としてお菓子屋を始めます。

初めはパンジュウ[2]を作って売ってんだよ。亜麻会社や治金に働いているひとたちが、会社が終わって帰るとき、争うようにしてパンジュウを買いに来たんだよ。家族へのお土産だったと思うよ。店の中に入り切らなくて表まで行列を作ったもんだよ。嘘じゃないよ

出典:阿部敏夫(2008) p.51より引用

哲さんは、元気な和装姿でお店の前に立ち続け、徳次郎さんは、製造を担当しました。当初は和菓子が主体でしたが、小樽からラクガンの職人が来て教わったりするなど、すこしずつ商品が増えていきました。

撮影:望月貴文

店内には、1961(昭和36)年の昭和天皇の行幸啓時に撮影された写真が飾られており、車両奥に「前田」の文字が見える

二代目が洋菓子を作り、オムレツケーキが誕生

現在のスタイルに近づいたのは、哲さんの長男で、真里さんの父・稔(みのる)さんからとなります。稔さんは、昭和40年代に東京の製菓学校に通い、浅草の菓子店で修行しました。二代目として継いでからは、洋菓子主体に切り替わったといいます。「オムレツケーキ」「みのり太鼓」といった馴染みの商品を扱うようになったのもこの頃からです。

撮影:望月貴文

「何かお店の名物になるもの作ろう」と、父(稔さん)が考えたのがオムレツケーキだと言ってました。当時(昭和40年代)は、バタークリームが主流でだったので、生クリームを使った商品は珍しく、目玉にしようとあれこれ研究して作ったんじゃないんですかね。オムレツケーキは、バナナと生クリームとスポンジだけのシンプルな商品だから、原材料の味に左右されやすくて調整が難しいんですよ

稔さんは、ほどなくして長沼町に住む真里さんの母・裕子(ひろこ)さんと結婚します。裕子さんも哲さんと同じく明るく元気な人で、共に看板娘として店先に立ち続けてきました。

三代目は、変わらないことを大切に、続けていく

1994年(平成6年)12月、父の稔さんが亡くなってしまいます。急遽、真里さんが三代目として後を継ぐ形になりましたが、当時はクリスマスシーズンの真っ最中。予約がたくさんあるなかで、悲しむ暇もなくケーキの準備に勤しんだそうです。

正直、大変な時や辛いときもありました。代が変わると、味が変わったという話は良くあること。うちも長いですから、そういった噂はあったんです。でも近所の子供達が全然かわらないじゃん!って言ってくれて、その時は涙が出るほど嬉しかった

出典:北海道新聞大竹販売所(2015)より引用

稔さんと裕子さんが元気よく働いていた頃の記憶を振り返る真里さん。

父と一緒に働いたわけではないけど、仕事姿は良く見てたし、私も、母と一緒に店頭に立って手伝いをすることはありました。父は優しかったので「継いでほしい」ような私に対して素振りは見せなかったですね。私は、父が亡くなる少し前まで札幌で会社員をしていたんですけど、父が入院することになって「私も専門学校に通おうか(=私が継ごうか)」と提案もしましたが、父はすぐ復帰して仕事をするものだと思っていたみたいで、その時は断られた記憶があります。入院中に亡くなったこともあって、慌ただしく継ぐ形になったので、私としては家業を継いだという気持ちはほとんどないですけどね。

製造に販売にと奔走する毎日ではありましたが、家族や親戚、周りのひとたちによって、影日向に支え続けてもらっていると言います。

継いで間もない頃に、菓子作りを教えてもらったんですけど、皆さん教え上手なのか「わー。お父さんと手つきがそっくり!」と褒められたこと多くて、嬉しかったですね。父の専門学生時代の友人が、店のピンチとばかりに本州から応援に駆けつけて技術を教えてくれたりもして、当初は、母と相談してお店を続けるかもどうか悩んでいましたが、周りの後押しもあって「これは続けなくちゃな~」という気持ちになりましたね(笑)

撮影:望月貴文

変わらないデザインの包装紙。箱にこの紙で包み、金色の紐で結ぶのが前田菓子舗の長年のスタイル。「まえださん」といえば、包装紙のデザインを思い出す人も多いのだとか。下の白黒の紙は弔事用

しばらくは、裕子さんとともにお店を切り盛りしていましたが、その裕子さんも2018(平成30)年に、亡くなってしまいます。

母が病気で亡くなったときも、さすがに、今回でお店を畳もうか考えてましたけど、母のことを良く知っている、昔からのお客様が訪ねてくれて「いや続けてくれてよかったよ~」と言われると「うちの味を待っている人がいるんだよな」と、その度に思い留まって何とか続けていますね。祖母も母もすごく元気な人でしたから、二人と親交が深かった常連のお客様からは祖父・父含めて昔話をよく聞きますね。その話を聞いているうちに、私がこの店を守らなくちゃという気持ちになっています

昔、ケーキを買いに来た小さな子どもが、大学生や社会人となって帰省の際に、お店に寄ってくれた時には、親戚の子どもが遊びにきたような感覚になるようで、会話がはずんだなかで「まえださんのお菓子を食べないと帰省した感じがしなくて」という言葉を聞いたときには嬉しかった、と語ります。

「家族の味や笑顔を愛してくれたお客様が通い続けてくれるように、お店を守り続けるのが自分の役目」と、栗山のお菓子屋さんとして昔ながらの味を守り続けています。

注釈
[1]ふるさと文庫の記録では「1950年(昭和25)お菓子屋さんを構え」と記載され、町のミニコミ誌の記録では「前田菓子舗の始まりは昭和26年」と記載とあり、開業年の表記に差異があるため、本稿では開業年を「1951(昭和26)年」と整理している。
[2]ぱんじゅうは半球型・たこ焼きサイズの焼き菓子で、ふるさと文庫の哲さんの発言には「ぱんじゅう」とあった。ただ一般的な大きさの「大判焼き」をお店で販売していたことを、真里さんは当時を知る常連から多数耳にしており、実際の大きさや形状などは不明である。

参考文献
阿部敏夫(2008)『栗山に生きる 栗山ふるさと文庫7-栗山の史実・民話-』NPO法人栗山・栗山町教育委員会・栗山図書館
北海道新聞大竹販売所(2015)「ミニコミ誌 栗えいと」第11号

前田菓子舗の基本情報

撮影:望月貴文

住所:〒069-1511 北海道夕張郡栗山町中央3丁目27(栗山駅から徒歩3分)
電話:0123-72-1374
営業日:毎日(不定休あり)
時間:10:00~商品が無くなり次第終了
支払い方法:現金のみ

※ 本稿は、2025年1月7日の取材をもとに広報くりやま2025年2月号で掲載した内容を加筆しています。

文章・写真:望月貴文(文化観光プランナー)


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