#10 歴史とお客様が紡いだ栗山のソウルフード|まちのこと
今年の栗山町の初雪は11月16日夜頃と、例年より少し遅くなりましたが、初冬の栗山は町内のいたるところで雪に覆われ、厳しい冬の到来を迎えています。
寒い冬は、暖かい鍋でも食べて乗り切りたいところです。
栗山のお鍋の定番スタイルと言えば「名取屋のホルモン鍋」があります。
一人前の鍋に熱々の味噌スープに豆腐や豚モツがふんだんに入ったホルモン鍋は90年近く歴史を持ち、炭鉱夫を始めとした多くの町民の舌を鳴らし愛されてきた一品になります。
今回は栗山の名物であるホルモン鍋にスポットを当て、3代目である伊藤広美(ひろみ)さんにお話を伺いました。
ホルモン鍋の黎明期は、炭鉱夫の胃袋を支えた
名取屋は、国道234号線に近い栗山町朝日3丁目へ1971年に移転して、今年(2022年)で52年目を迎えます。移転前は、栗山町日出にあった新二岐駅(旧夕張鉄道)の向かいに1926(大正15)年頃[1]にお店を構え、40年に渡って炭鉱夫たちを中心に労働者のお腹を満たす存在でした。
当時の名取屋は「大衆食堂」として、丼や定食といった和食をはじめ中華、寿司など広く取り揃えており、主役のホルモン鍋は、現在のような名取屋の名物としてではなく、数あるメニューの一つにすぎなかったそうです。
1970(昭和45)年に角田炭坑が閉山に伴い新二岐駅も廃駅となり、日出地区の人口が急減。人の流れに大きな変化が生じます。伊藤さんの祖父母(後の1代目)は悩んだ結果、翌年、町の経済の中心である現在の場所に店を移すことを決断しました。
お客様が選び続けて名物となったホルモン鍋
移転後は「ドライブイン名取屋」と名前を変え、再び大衆食堂として活躍します。お客様も炭鉱夫に変わって、町内の家族や農家、隣にある栗山赤十字病院の医療従事者などの胃袋を支えることになります。
後(1975年)に国道234号線が現在の道路に拡張されたこともあり、トラックの運転手の多くが名取屋に訪れることになります。
ホルモン鍋は、日出時代と変わらずお店のメニューの一つではありましたが、いつしかお店の名物料理にまで成長しました。
伊藤さんに「いつからホルモン鍋が名物料理になったのか」と聞くと。
時代の変化もあり、メニューを少しずつ絞っていくなかで、お客様の要望により残り続けたホルモン鍋。現在では、お店全体の8割を超える注文がホルモン鍋(定食)に集中しているようです。
Instagramから彩る名取屋の世界
3年前、世間はコロナ禍に見舞われます。伊藤さんは家業を盛り上げるためInstagramを始めます。手探りで始めた情報発信は、いまでは名取屋の日常を支える大きな武器となっています。
Instagramを始めてから、お客様の層も変化しているようで、これまでは町内の方が多かったのが、投稿を見て仕事の途中で立ち寄ったビジネスマンや、札幌からバイクツーリリングに来るライダーや、日帰りドライブできた家族など、町外からの来客が増えてきたといいます。
最後に「ホルモン鍋の自慢はなにか」と尋ねたところ、
昨年(2021年)からキムチやニラ、キャベツなど、季節の野菜を加えたトッピングメニューを追加。唯一無二の味を守りつつ、変化を楽しむことができるようになっています。
もっと多くの人にホルモン鍋を食べてもらいたい、店とお客様と共に紡いだホルモン鍋を守りたい、という想いから、伊藤さんはこれからも試行錯誤を続けていきます。
広報アンケートで名取屋の食事券をプレゼント[2022年12月30日追記]
広報くりやま2023年1月号の裏表紙にホルモン鍋を記事を掲載しています。今回は伊藤さんのご厚意もありお年玉(プレゼント)企画をする運びとなりました。詳細は広報誌の裏表紙に記載しています。
食事処 名取屋の基本情報
注釈
[1]吉原幸廣(2018) p.5には「大正15年頃に佐藤商店が開業。この頃、夕張鉄道の工事が行われていて -中略- 伊藤屋(のちの名取屋)などが営業していた」と記されている。本誌以外に名取屋の創業当初ついて示唆する文献が見つからなかったため、本記事では1926(大正15)年を創業年として整理した。
[2]登記上は当時の名称のままにしている
参考文献
栗山町(2022)「くりやマニア vol.6」
吉原幸廣(2018)「栗山町日出の歴史」
炭鉄港推進協議会「炭鉄港デジタル写真館」
※ 本稿は、2022年11月28日・12月5日に行った取材をもとに作成しており、一部写真については、炭鉄港デジタル資料館及び所蔵元の許可を得た上で掲載しています。また、北海道空知地域創生協議会が配信する「そらち・デ・ビュー」にも同時掲載しています。