#2 「あの坂へいそげ」 祖父の言葉が、自分の生きる理由へと繋がった|くりやまのひと
命を守る大切さを語りつなぐ語り部
1993年7月12日は「北海道南西沖地震」の発生日です。最大7~8mに達した津波が北海道の南西沖を襲い、死者・行方不明者あわせて226名という、不幸に見舞われた日になります。
近年では、2011年3月に東北地方を中心に甚大な被害を受けた「東日本大震災」、2018年9月に北海道で観測史上初の震度7を記録した「北海道胆振東部地震」など、多くの国民や北海道民が大規模災害を経験しており、忌まわしい記憶の中であっても、被災の経験からさまざまな教訓を得ています。
北海道南西沖地震もその一つ。津波といえばこちらの地震を思い起こされる道民も多いはず。しかし7月12日で29年目を迎え、四半世紀を超えた歳月は、体験していない世代を中心に、記憶も風化されつつあります。
津波により最大の被害を受けた箇所は、北海道奥尻島。死者・行方不明者あわせて198名が犠牲となりました。特に被害が大きかったのは地図にある青苗地区です。
その青苗地区で津波被害に遭いながらも、生き残った一人の少年がいます。その少年が三浦浩(ひろし)さんです。三浦さんは「命を守る大切さを語りつなぐ」の代表として、ここ栗山で語り部の活動をしています。
今回は、三浦さんから地震当時の行動や、語り部活動を始めた理由など、対話を重ねながら書き留めることとしました。
祖父の言葉に救われた命、パンツ一枚からのスタート
三浦さんの語り部活動の根幹にあるものは「おじいさんの教え」です。
北海道南西沖地震発生のおよそ10年前、1983年5月に発生した「日本海中部地震」。この地震による津波で奥尻島も被害に遭い、おじいさんの漁師仲間が亡くなってしまいます。この出来事をきっかけに、おじいさんは、おじいさんなりの教訓として、三浦少年に次の言葉を伝えることにしました。
当時、5歳だった三浦少年ですが、初めの頃は素直にその話を聞いていました。しかし小学・中学と成長にしたがって、事あるごとに聞かされるおじいさんの言葉に、また同じ話しか、と思いながら聞いていました。
1993年7月12日、運命の日を迎えます。地震が発生した午後10時17分、祖父母と3人暮らしをしていた高校1年生・15歳の三浦少年は、海岸からすぐ近くにある自宅で勉強をしている最中でした。大きな揺れが発生した時、最初に脳裏をよぎったのは、おじいさんのあの言葉。
三浦少年は、足の悪いおじいさんを背負い、おばあさんの手を引きながら、懐中電灯を握りしめ、懸命に灯台がある坂へ目指しました。坂を駆け上がる頃には波しぶきを感じるほど、すぐ後ろまで津波が迫っていましたが、寸前のところで灯台のふもとへ到着し、一命をとりとめることとなります。
一瞬の出来事で自宅も財産も失い、手元に残された物は懐中電灯とその時に履いていたパンツ一枚。途方に暮れながらも三浦少年は、おじいさんの教えにより家族の命を守れたこと、自分の命が救われたことを悟ります。津波でさらわれた真っさらな青苗の海岸から、三浦少年の第二の人生がスタートしていくことになります。
語り部として活動するようになった理由(わけ)
その後、三浦さんは奥尻島の消防士として働き始めます。地震時での消防士の活躍に憧れを抱いた、というのが理由だそうです。しかし当時を振り返ると「津波の記憶を消し去りたかった」という想いが強く、仕事にのめり込むことはあっても、津波の過去を振り返ることは少なかったといいます。
その三浦さんに大きな転機が訪れます。2004年12月に起こった「スマトラ島沖地震」です。災害NGOの要請により派遣先に赴いた際、津波の映像や凄惨な現場を目の当たりにし、当時の記憶が蘇ることとなります。
その後、国際舞台の場で津波の体験談を語ったことから「津波=Tsunami」の経験は、世界にも通ずる経験であること、自分の体験は後世に伝える必要がある、と実感します。この経験を忘れてはいけない、伝えないといけないと、一度は遠ざけた過去を振り返るようになります。
田畑ヨシさんと紙芝居との出会い
しばらくは口頭で語り部活動をしていた三浦さん。活動の大きな原動力となったものに「紙芝居」があります。このスタイルに落ち着いたのは、1933年に起こった「昭和三陸地震」の津波の語り部として40年近くに渡って語り継いできた、田畑ヨシ(故人)さんからの教えです。
田畑さんからの「事実は伝わりにくいが、物語は伝わる」という教えは、三浦さんの心を揺さぶる言葉となります。
「あの坂へいそげ」と、おじいさんの教えをシンプルにまとめた言葉をタイトルにし、紙芝居の制作に明け暮れました。家族や職場の人の協力も得ながら生まれた、紙芝居による活動は、三浦さんにとって確かな手応えを掴むこととなります。
紙芝居という新たな武器を持ち、自分のスタイルに磨きをかけ活動を継続していましたが、活動を続けるにつれて、移動の関係から離島である奥尻島での活動に限界が生じたこと、ともに暮らしてきたおばあさんが亡くなったこと、家族の支援も重なったこともあり、18年間勤めていた消防士生活にピリオドを打ち、2016年に栗山へ舞台を移すこととなります。
現在は、町内の福祉施設で働く傍ら、休日の時間を使って、年30回程度、全国・全道の各地を駆け巡っています。
日常から繋がる津波の教訓
広大な石狩平野の内陸部に位置する栗山は、津波とは無縁の地域ですが、三浦さんの対話の中から、津波の教訓は決して無関係ではないことが分かってきます。
「500年に1回の洪水」とも言われた「昭和56年水害」。1981(昭和56)年8月から9月まで1ヶ月間続いた集中豪雨は、札幌で1ヶ月間の降水量が700mm以上を記録するという事態となり、石狩川下流部の市町村を中心に、甚大な被害となりました。栗山もその間の降水量は447mmを記録し、2019年の年間降水量(457mm)に匹敵する豪雨が降り、夕張川が氾濫しかけた経験もありました。
短時間で発生する津波に比べ、集中豪雨や台風、洪水といった「風水害」は、発生までに少し時間がかかります。しかし三浦さんは、風水害からの避難は津波からの避難は同じ、としています。
どのような災害であっても避難で一番大事なことは「心の備え」です。三浦さんは「もたない・もどらない・よらない・さがさない・またない」という5つ言葉を大切にしています。
おじいさんが発した言葉によって家族の命が救われたように、日常の中に埋め込まれた心の備えが、命を守る大切さへと繋がります。
語り部として命を守る大切さを伝えていきたいという、三浦さんの言葉の多くから、強い意志と誇りが垣間見られていました。
※ 本稿は、2021年6月24日に行った取材をもとに作成しています。
追記:2022年4月5日
三浦さんは、津波の教訓を全国に伝えるため1年間、愛車で全国行脚に出かけます。
昨年7月の取材時でその旨を聞いていましたが、この度、有言実行となりました。栗山から離れるのは残念ですが、津波の語り部として自身の生き様を示す三浦さんに、旅立ちに幸あれと強く思うところです。
追記:2023年7月12日
30年間の節目である2023年7月12日。NHKでも三浦浩さんの特集が掲載されました。
命を守る大切さを語りつなぐの概要
おまけ:栗山町の洪水ハザードマップ
今回は防災に関する内容ということで、栗山町の洪水ハザードマップと避難所の情報も掲載しています。写真の色がついている場所は「浸水想定区域」で、洪水時に想定される「水に浸かる深さ」を表しています。自分の住んでいる地区の色は何色でしょうか。
三浦さんが大切にしている5つの言葉を、もう一度確認してみてくださいね。(画像をクリックするとPDFが表示されます)
【参考文献】
・三浦浩・高橋毅(2017)『あの坂へ急げ』文芸社
・三浦浩・永井利幸(2021)『いのちのやくそく』文芸社
・内閣府「災害対応資料集:1993年(平成5年)北海道南西沖地震」
・栗山町(2021)「ポケット統計くりやま」
・栗山町(2018)「防災ガイドブック」
・栗山町(1981)「広報くりやま」1981年8月15日号