#8 出初式から始まる栗山町(2/2)|まちのこと
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#8 出初式から始まる栗山町(2/2)|まちのこと

くりやまのおと

前編では、栗山消防団による出初式の様子を紹介しました。

後編では、出初式の歴史や栗山町での成り立ちなど、少し掘り下げて解説します。

出初式の歴史は江戸の大火から始まる

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があります。喧嘩はさておき、江戸での火事は日常茶飯のできごとであり、空気が乾燥して強風が多い江戸は、冬季に大規模な火災が発生しやすい地域でした[1]。

江戸の三大大火とも呼ばれる「明暦大火」。1657(明暦3)年の1月に起きたこの大火では、10万人近くの死者が出たと伝えられています[2]。265年間あった江戸時代の大火の発生は90件程度、3年に1度を上回るペースで、町の大半が焦土と化す大火に見舞われていました[3]。

出初式の起源は、明暦大火から2年後の1659(万治2)年。1月4日に「定火消(じょうびけし、幕府直轄の消防組織)」が上野東照宮前で気勢をあげました。この行動が「出初(でぞめ)」と呼ばれ、当時明暦の大火後の復興作業に苦しんでいた江戸の住人に対し、大きな希望と信頼を与えます[4]。

これ以降、出初は次第に儀式化され、恒例行事となり今日の出初式に受け継がれていきます。

定火消の誕生から約60年後、1718(享保3)年に設置された「町火消(まちひけし)」にも、定火消の出初をまねる習わしが伝わり「初出(はつで)」という名称で、1月4日に木遣歌(きやりうた)を歌い、登梯(とてい・はしご乗り)などを行っていました[5]。

町火消の基本的な担い手は鳶(とび)の人たちです[6]。多くの火災に見舞われた江戸を、町火消である鳶がそれぞれの法被(はっぴ)をきて、はしごや纏(まとい)を駆け巡る様は、まさに江戸の華といえます。

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町火消火事場に赴くの図『風俗画報』江戸の花上編 第179号
掲載元:教育と研究の未来HP「風俗画報でみる明治・江戸の火災・防災

栗山の消防団と出初式の成り立ち

明治に入り、町火消以外の江戸の消防組織は廃止され、町火消も「消防組」と名称が改められます。出初式は、明治維新によって中断されていましたが、1875(明治8)年1月4日に東京警視庁(現在の警視庁)により復活することになります。

その後、消防組は東京だけではなく全国各地で作られることになります。1894(明治27)年に明治政府より消防組は1町村に1組を設置するよう勅命[7]を受け、栗山では1903(明治36)年に「私設栗山消防組」を創設。4年後の1907(明治40)年に公設へと移行し「公立栗山消防組」が誕生しました[8]。

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創立当初の栗山消防組
出典:栗山消防団(2003) p.30

栗山で行われているの出初式はいつ頃から始まったのか、資料や文献からは判明できませんでしたが、大正時代の登梯の写真が残されています。

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大正時代の出初式の様子
(所蔵:栗山町教育委員会)

栗山消防組は、戦争の影響により、1939(昭和14)年には「角田村警護団」へ組織が移り、終戦後の1947(昭和22)年に「角田消防団」と「日出消防団」に生まれ変わります。翌年には両消防団が統合し「角田村消防団」へ、その次の年には町制施行により「栗山町消防団」に名称変更します。現在の「栗山消防団」は 1972(昭和47)年に南空知消防組合の発足に伴い変更されました。[9]

出初式も、警防団時代には姿を消していましたが、消防団となり復活します。しかし高度経済成長に入り出初式の形も変化。分団の一つである栗山分団では、花形である登梯は 1971(昭和46)年を最後に中止し、1976(昭和51)年から木遣り行進が栗山分団の名物となりました[10]。

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出初式の纏隊の集合写真(1973年)
出典:栗山消防団(2003) p.2

その後は団員の希望もあり、1993(平成5)年に登梯が復活します[11]。登梯は、木遣り行進に替わる出初式の主役となりますが、昨年(2021年)は新型コロナウイルスの影響により、出初式は中止となります。

出初式に対する想い

今回は、現役の消防団員の想いをお聞きしました。

栗山消防団 第一分団 班長・仲井浩祐(こうすけ)さん

仲井さんは、家業を継ぐため栗山へUターンした21歳のときに消防団に誘われ入団を決意しました。「栗山に帰ってきたとき、地域の役に立ちたいという想いがあったので、消防団の活動は興味をもっていました」と語ります。

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仲井さんは「仲井果実店」(中央2丁目)の店主として、町民や事業者においしい果実や野菜を提供するため日々奔走している。

仲井さんは入団した年から登梯員として活躍しています。自分の性格は控えめだけど、目立つところ(はしごの上)に立てるのであれば、せっかくだからやりたいなという思いが、登梯に自分の役割を見い出すことになります。

今では20年を超えるベテランとなり、人生の半分以上の新年を出初式と付き合ってきました。そんな仲井さんも、そろそろ引退を考えているようですが、「自分の子どもに雄志を見続けてもらいたいのと、自分の納得できる演技がまだできていないのもあって、やめ時を失っているんですよね。なので、もう少し続けていきたいですね」と語ります。

登梯の大先輩として、これからの若い団員には、はしごを登る様子をたくさんの町民に見て欲しいと感じています。

栗山消防団 第一分団 団長・塩見望(のぞむ)さん

塩見さんは、30年程前にUターンがきっかけで、消防団員の父の跡を引き継ぐ形で入団しました。入団当時は、登梯が復活したばかり。すぐに登梯員に抜擢され、しばらくの間、出初式で登梯の技を披露していました。

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塩見さんは「シオミ薬品」(松風3丁目)の店主として、町民の健康を支えいるほか、栗山高等学校女子野球部の創設に向けた活動など、まちづくりにも尽力している。

現在は、分団長として出初式を取り仕切る立場にある塩見さん。登梯の最前線で見守ってきた一人として、昨年の出初式の中止は、非常に悔しい決断とになりました。

そのため今回の出初式は、1年間の悔しさをバネに実施した大切な式であり、無事に終わったことに深く安堵しています。

今後の出初式も、コロナ禍の中での実施を判断していくことになります

マンネリ化しないように、出初式の様子をもっと町民や子どもたちにも見てもらえるようにしたい。特に次世代の子どもたちが両親の姿を見て、消防団を当たり前に認識してもらえるようにしていきたい。

と、塩見さんは強い意志を覗かせていました。

江戸時代から始まった出初式は、明治・大正時代に栗山の地で根付き、昭和・平成を経て変容を見せながら、令和の時代の中にあっても1年の無火災を願う儀式として生き続けています。

【注釈】
[1]鈴木(1999) p.6
[2]同上 p.6
[3]消防防災博物館HPより
[4]東京消防庁HPより
[5]同上
[5]鈴木(1999) p.16
[6]同上 p.24
[7]消防組規則(明治27年2月10日勅令第15号)
[8]栗山町(1991) p.755、日出分団では昭和56年の出初式で最後の登梯の技を披露したと記されている。
[9]栗山消防団第1分団後援会(2018a) p.9
[10]同上(2018b) p.3
[11]同上 p.3

【参考文献】
・栗山町(1989)『栗山町史第1巻
・栗山町(1991)『栗山町史第2巻
・阿部敏夫(2008)『くりやま写真で見る120年史  写真で蘇るこころの中の記憶』栗山町・栗山町教育委員会・栗山町図書館
・鈴木淳(1999)『町火消たちの近代 東京の消防史』吉川弘文館
・南空知消防組合消防本部(2021)『消防年報2020(令和2年)版』
・栗山消防団(2003)『温故知新-栗山消防100年記念誌』
・栗山消防団第1分団後援会(2018a)『創立70年近代消防への道のり』
・栗山消防団第1分団後援会(2018b)『創立70年近代消防への道のり 資料編』
・教育と研究の未来HP「風俗画報でみる明治・江戸の火災・防災
・東京消防庁HP「消防出初式の移り変わり
・消防防災博物館HP「1.江戸時代の消防

※ 本稿は、2022年1月20日及び1月25日に行った取材をもとに作成しています。

文章:望月貴文(地域おこし協力隊) 写真:田中成明(栗山消防団)

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